私は先生が好きだ。
大好きだ。
何故って、簡単にいってしまえば、
『人間が人間であるために自然とおこってしまった、過去の過ちによって、長く苦しんでいる』からだ。
その過去の過ちも、苦しんでいる現在も、どちらも人間らしくて、とても良い………。
先生の状況というのは、なにも話のなかだけのものではない。
現在でも、『友情』と『愛情』のどちらを選ぶかで悩んだ事のある人が沢山いると思う。
そして、この『どちらかを選ぶ』というのは『どちらかを捨てる』ということになり(全てがそうだとは言わないが)、選んだ時点で、少なからず捨ててしまったほうへの後悔や罪悪感を感じるはずだ。
先生の過去の過ちも、現在の苦しみも、空想ではなく現実味のある、より人間らしい感情だと感じる事ができる。
私は人の弱さや脆さが好きなのだ。
どうも美しくみえてならない。
なので、私は先生が大好きだ。
Kにお嬢さんへの想いを打ち明けられたとき、どう感じただろう。
『覚悟』の言葉を聞いたとき、どう感じただろう。
お嬢さんの母に自分の想いを伝えたときに何を感じ、そのあとのKへの気持はどうだっただろう。
そしてKが自殺した時、Kの遺書に自分の名前がなかった時、事がおさまった後に、誰にも自分の気持を理解してもらえないとき……年月がたち、Kへの墓参りをしているとき、『私』と出会ったとき、遺書を書いているとき…………
私は先生の気持を感じてみたいのだ。
文字で書き表されている本文を読むだけでは満足できない。
自分が感じたいのだから。
まぁしかし、私は先生ではないので、結局書いてあることをそのまま読むよりほかはない。その時に感じるのは『読んでいる私の思い』であって、『先生の思い』そのものではない。
とても、もどかしい。
あと、上に書き散らしたもののほかにも、考えてみたいことがある。
Kが死んで、愛する者とは結ばれたが、自分の思う所を誰にも理解されずに苦しんでいる状況で、生きているときのKはどうだったか…あの時の『覚悟』とはどういった意味だっただろうか……と、先生が考えたなら、いったいどんな答えにたどり着くのか………それが知りたい。
少なくとも、『覚悟』という言葉が『居直り強盗』のように感じることはないだろう。
私は先生が好きだ。
山月記の李徴やKが私の憧れで、『私』が今の私に一番近い人間だとしたら、先生は近くて遠い幻想のような存在。 人間味溢れ、確かな存在感があるにも関わらず、その存在は脆くて儚い。
私は先生のようになりたいと思うが、これは憧れではない。この気持を何と呼ぶのかは、まだ分からないが、兎に角、そういった意味で私は先生が大好きなのだ。
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