=山月記= |
中島敦
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【李徴への想い】
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私は学校で受けたこれについての教えには賛同しかねる。 おそらく私の学校の現代文の教師の極論だとは思うのだが、私はその時こう教わった。 『李徴のように自分勝手に生きていると、取り返しのつかないことになるという教訓だ』と。
私は、この話がそんなに薄っぺらいものだとは初見ですら思いもしなかった。
私は李徴が好きだ。 教師は『いけ好かない奴、虎になって当然だ。俺は嫌いだ。』と言っていた。 ・・・・・・・思うに、教師とは真実、或いは正しいことを教えねばならぬ身なのではないか? 例えば数学のように、はっきりとした答えが出る物ではないものや、それこそ現代文のように如何様にも答えが出る物においては、決め付けて教えるのは間違っていると思うのだが・・・(よく〈作者はどのような気持ちで○○と書いたか。〉という問題があったが、世間一般、常識的な答えは用意されているが、本当のところ作者の気持ちなんて作者本人しかわからない。直接聞いたか何かに書き記してあったのなら話は別だが、そんなことばかりでもないだろう。もし、今に伝わっている話の作者が、授業で教えられるような心持で書いたのではなく、特に何も考えずに書いていたとしたら・・・・・・そう考えてみるのも、また面白いものだ。)
話がそれた。
私は李徴が好きだ。
大好きだ。
李徴の何が好きかって【人間の脆さ】の塊のような人物に思えるからだ。 李徴は『臆病な自尊心』と『尊大な羞恥心』のために虎という獣に身を落とした。 しかし、そんな物は人間誰しも持ち得る物なのではないだろうか。 そもそも人間は矛盾と有るのだから、何か相反するものが内にあり、その葛藤の中で生きているといっても良いのではないだろうか。
私は李徴の気持ちが全く分からないわけではない。 『努力すれば自分ならやり通せるとは思っているが、努力した所で何も変わらず、自分は何もできない奴なんだと絶望するだけなんじゃないか・・・』とは、私も普段から思っていることだ。(まぁ、私の場合はその前に『孤独は嫌だ』という思いがあるから、自ら他人と距離をとるようなマネはしないようにはしているが。)
李徴はそのために、あえて自分から人と交わろうとはせず、師にもつかず、孤独のうちに自らの葛藤に一人苦しんでいたのだ。
これほど人間味の溢れた人物を、どうして嫌いになれようか。
李徴は虎になるまでの所業を悔いているが、私はそれが全て間違った事だとは思わない。 自分のやりたいことを何よりも最優先し、全てを投げ打ってまで打ち込んだ、素晴らしき芸術家。
・・・そうではないか。 他人との関係、妻子との関係、そして自分の人生・・・ その全てを捨ててでもかなえたい夢、衝動があったのだろう。(実際、何世紀にわたって名を残っている芸術家には、このような人物が多いように思える。) 私は李徴のそれほどまでの心情をとても尊敬している。 ・・・とても、羨ましく思っている。
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